昭和46年10月17日 朝の御理解
御理解 第11節
「神は天地の守りじゃから 離れることはできぬぞ。」
私共が教祖金光大神の御出現に依って、分らされた神様はこう言う神様なのです、神は天地の守りじゃから、離れる事はできんぞと、教祖金光大神様が御出現なかったら、この様な素晴らしい事でも、分からなかったに違いない、まあおぼろけに分ったに致しましてもその天地金乃神様の御働きを私どもの家の上にも、身の上にも又社会にも表す手立てもわからなかった事だろうと思います。
いうならば御道の信心で言う神観、神を見る、金光教ではどう言う神様を対照に拝んでおるかと、ここ十節、十一節、十二節、その言う事をですね、神が社に入ってはこの世は闇になるとか、神の会おうと思えば庭の口を、外へ出て見よ空が神、下が神と仰る様に、そう言う神様なのです、今日の十一節はとりわけ神は天地の守りじゃから離れる事は出来ぬぞ、とそう言う神様を例えば頂いておっても、居られてもですそう言う神様、私どもがねそう言う神様を本当に頂く。
いわゆる、天地金乃神様のどう言う素晴らしい例えば働き、それこそ天地が自由になって下さる程しの、人間の幸せの鍵のすべてを握ってござる神様、そう言う神様を私どもが頂いておりましても、分っておりましてもです、その神様を表して行くと言う事、その神様のそう言う働きを表して行くと言う事が信心なのです、それで神様は天地から離れる事は出来ぬと仰る。
天地の守りじゃから、なら同時にです、世界中の氏子と人間氏子と、お呼びかけになられる様に、その氏子の一人一人の上に至って、御守り下さってある事、否離れなさる事は出来ない、いわば性質の神様なのです、天地から離れる事が出来ない様に、私共一人一人の上からも離れることが出来ない神様。だから今日はそうした神観と言う意味ではなくて、私どもからはなれる事ができない神様を如何に私どもが頂くかによって先程から申します天地が自由になる程しのおかげを、私どもの上に見せて下さる。
人間の幸せを握ってござる神様なのですから、私どもに限り無い幸せをおくって下さる、恵んで下さる事の出来れる神様、だからそれを私どもが、そう頂き表して行く事のためには、どの様な心がけになったらよいかと言う事をね、今日の十一節のこれは大体はこれは神観ですけれども、を説明しておられるのでありますけれども、神様が私どもから離れなさる事ができない、そう言う神様、かと言うて私共が幸せになれるかと言うとそうじゃない、神様が一人一人につきっきりに付いてござる。
それでも私どもにそれを頂くと言う気、これをもっと切実に申しますならです、神様なしには生きられないと言う実感、神様のおかげを頂かねば立ち行かない私だと言う、事実を本当に分からせて頂いて、その実感を以て、この神様に接して行くと言うか、もう実を言うたら離れる事が出来ない神様ですから、私どもの中に宿ってござる。只その神様の働きを所謂十全にして行く、その神様を自由自在に私一人のためにお働き下さる事の出来る様な、働きを表して行く、神様の働きを表して行くと言う事。
そのためには私共がです、神様も離れる事が出来んと仰るのですから、私共は離す事は出来んと言う信心なんです、そこん所を神吾と共にありとか、同行二人とかで表現されとります。神様は共に私どもと居って御座るのだけれども、私共自身が神共にあると言う実感と同時に神様といつもどこにも、どこに行っておってもこの神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと言う事実を事実として、私共が分からして頂く時にです。
始めて神様との交流、本当の意味においての交流というよりも、おかげの頂かれる世界が、そこから開けて来るのです。ところがどうでしょうか、神様はまもりどうしに守っておってござる、離れる事は出来んと仰るけれども、私共が例えば病気を致しますと、さあ医者じゃ薬じゃと言うておる時にはもう神様を薄いものにしておるだけでなく、忘れてしまっている、これでは神様の働き場がないですよね。
身体の事だけではありません難儀と言う難儀の時、お金がたりない、さあどこから借りようかと言う事ばかり考えよる、神様のことは忘れてしもうとる、これではね如何に神様が私どもと共にあってござっても神様の働きをそこに表す事は出来ません。純粋にその神様に縋る、その神様に委ねる、そう言う信心が出来た時に医者もいらなければ薬もいらん、誰れどこそこに借りに行くこともいらん、ちゃんと絶対に必要なものなら絶対に神様が与えてくださる。
それをあちらにかけたりこちらにかけたりしておるから、おかげが中途半端になってしまう、まあそれでも信心のはじめの間は誰でもやっばり半信半疑、そこまで神様を信ずる事は一時二時では出来ないにしましても、それを皆さんがお話を聞いておって、そう言う神様であると言う事をいわば前提としての信心、それに近かずかせて頂く、本当に私共一家の上にはこの神様がござらなかったら、私ども一家は立ち行かんのだと言う実感、私だけの場合でも同じ事。
私はこの神様のおかげを頂かない事には、立ち行かんのだと、そこに自分の家のめぐりの深さを知る事も有難い、自分自信の内容と言うものを愈々検討に検討させて頂いて、所謂ギリギリの自分と言うものを知ると言う事、いわゆる障子一重がままならぬ人の身であることの自覚、神様のおかげを頂かねばここ一寸が動かれんのだと言う事実、そこでそこ一寸を動かして頂くにしましても、あなたのおかげを頂かねば動かれんのですと言う、この信心なのです。
そこのところにです神様は天地からはなれなさる事が出来ん様に、私共からも離れなさる事が出来ない、いわば宿り通しに宿ってござる神様、その神様をいわゆる生生と活動して頂けれる、場を神様に与える事になる、その辺の所が分りますかね、そこが分らんと今日私が言わんとする所が分らん、神様のおかげを頂かんと立ちゆかん私と言う事なのである、と言う様に神様を離す、神様は離れる事は出来んと仰る、私どももまた離す事が出来んと言う、そう言う事とところが事実は。
私共が神様の事を忘れておる様な事はなかろうか、信心しておっても、だからおかげが頂けたり頂けなかったりと言う事ではないですか、離れる事が出来んと仰るのですから、私どもも離すことが出来んと言うところまで、その神様を頂かねばならんと言う事が分かります。そこでそう言う離れる事が出来ない、離す事が出来ないと言う程しの神様を実感として自分の心の中に頂けると言う。
いただける事のために様々な信心の修行をするのです。ああ神様が守り通しに守って下さるなあ、見通し聞き通しじゃなあ、自分の身体全体を守って下さるのじゃけんで、内臓の一部位があなた故障が起こっとったって、その神様にその気で縋れば、おかげが頂ける筈ですよ、そうでしょうが、そこを知りそこを信じて、医者であり、薬である事になれば又有難い、そこを信じて例えばお金の調達ならば又有難い。
神様にお願いをしてどこどこにお金の調達にまいります、そこんところを抜きにして調達にいったり、そこん所を抜きにして、医者だ薬だと言うから、おかげにならん事になるのです、その信心がいよいよ本格派とでも申しましょうかね、本当な所が分かって来るとです、そのお金を例えばなる程いまお金に不自由しとる、借りに行きたい、けれどもその修行を神様が求めてござると思うたら、借りに行く事も何もいらん。
なかなら無いで例えばそこで、ひどい督促を受けてもそれを修行と受けて行ける位な度胸が出来たら、それが一番素晴らしい事であり、又そう言う度胸が出来たら、必要なものが必要な時に絶対集まるです。ですからそう言うおかげの世界と言うものをです、私どもはかい間見ておると言うだけではないかね、合楽の人達の場合は。私がこの程度に神様を頂いとる訳です。
昨日は椛目の内田さんのところの、御主人の十五年の式年祭でした。御兄弟が全部椛目に居られますから、御兄弟は見えられませんでしたが、その連れ合いの方達が見えられました、勿論子供はあっちこっちおりますけれども来れる子供もあれば事情があって、来れない子供もあると言うのもあった、ですからそれも矢張り家内がお参りをして来たり、娘達が全部お参りをして来た、子供は広島に行ってる耕治さんがお参りをして来た、それからこの頃結婚しました洋治君が一寸遅れたですけど、お参りして来た。
私は本当にその御霊様のおまつりを前の日から、お願いし続けておったですけども、助かっておる御霊と言うものは、どうしてこんなに気分が良いだろうかと、もう御霊様のですね、喜びを見せ続けられるのです、前の日からだけではないです、ほとんど御霊がですね、そう言う時子供が参ってきとらんと淋しかったり、お茶が欲しいのたばこが欲しいのと例えば言う様な御霊がほとんどです、ところが内田さんの御霊の場合なんかはですね、本当に五年祭で位を頂いた。
十年祭で又頂いた、十五年祭でいよいよおかげを頂いて、例えば子供が参ってきとらんでも、淋しい思いをせんですむ、おかげを頂いた御霊、あれが欲しいこれが欲しいと言わんで、済むと言う事はもう仏教の言葉で言うならば、百味の御食のおかげと受けておると言う事なのです。だからさばさばした気持ちの良い、そのお祭りでしたですね、何かしめっぽくなるのですよ、あぁあの子がきとらん、淋しいなと言う様な表情をする御霊があるのです。そんな事ではない子供にも頼ってなければ。
物とかそう言ったものには頼ってないと言う御霊です、そこで私はどうしてそう言う素晴らしい御霊の位が進んで行かれたかと言う事を思いますと、生前この人はね、もうず抜けて人を喜ばせる事が好きな方でした。しかも人の喜ぶことがね、それが自分の喜びなのですよ、例えば自分の食べ物がなかったっちゃ、人が飢じいと言えば与えにゃおかんと言う人でした、そして人がああおかげでと言うと、もうそれが嬉しくてたまらんと言う性格の人でした、これはまああちらを知っておられる方なら。
私が説明しなくても、ああその通り本当に確かにその通りと思う様な方でした、だからそう言う例えて言うならば、神様の様な心を以ておってもです、信心がなからなければ助かる事はできないです。今日私が申します神様の守りを頂いておる、神様は離れる事は出来んと仰っても、これが仏様の様な人じゃ。
神様の様な人じゃと言うてもです、おかげは受けられんのですよ、天地のおかげと言うものは、天地金乃神様のおかげと言うものはそう言う心の人が縋る事をおぼえる、より改まって行く事を、より磨いて行く事を、いやこの神様なしには生きて行かれんと言う事をね、その人が又はその御霊が感じ取った時です、それは又素晴らしい働きになって来る。だから世の中にありましょうが、ああ、あの人は仏様のごとある人がどうしてあげな難儀が続くじゃろうかと言うのが、それなのです。
ところが有難い事には内田さんところの一家の場合はね、その後の信心が生き生きしして出来て来るから、その生き生きとした信心が形には表れないけれども、根の方へどんどんどんどん入っていった訳です、ですから御霊は遺族達の信心の祈りを受けて、自分の持っておる素晴らしいものと一つになって、御霊の位は進んでいった、この二つが一緒になって行かなくちゃならん。 本当に私どもが信心させて頂いて、いくら信心しとっても内田さんの様な真似はできません。
本当、けれども私どもはそこを信心によって、限りなく美しくならせて頂こう、本気で神心も使わせて頂こう、真心にもならせて頂こうと言う、稽古をさせて頂いてです、同時に神様を一時も離すことが出来ない、私と言う事をしらなければいけません、神様なしには生きて行かれんと言う、神様を離されん、神様も離れる事は出来んと仰る神様、そう言う神様じゃからぼやっとしとっても、幸せの総べてを与えて下さるかと言うと、それが出来られないのが神様、これは御霊さまでもそうです。
だから私は昨日内田さんの娘達に申しました、如何にお父さんの御霊が安心の御霊とか力を頂いてござる御霊様と言うても、あんたどんが本当に無邪気な心で、お父さんこう言うことになっておるお願いしますと、御霊にすがるおかげを頂いてごらん、それは不思議な位におかげ頂くよと、けれどもそのためには日頃一心の真を捧げて御霊に奉仕しなければ、駄目ですよと、ああお父さんが辛いものが好きだった、お父さんが甘いものが好きだったと思うたら、自分が食べておるそのボタ餅でもよかです。
半分はお父さんにと、昨日耕ちゃんが言ってました耕治さんが、本当に父があしてお酒が好きだったが、現在おかげを頂いてからまあ言うなら何不自由ないおかげを頂いて、もう本当に広大なおかげ頂いとるから、本当に今ならお父さんにねお酒の一升でも二升でもいつも買って、送って上げられるのにと思えただけで、大声上げて泣きたいごとある感動を覚えると言っております。
買ってやりたいと思うだけで感動を覚える程しに、御霊が動きよる訳です、昨日その後に耕治さんが話しておりましたですがね、同じ例えば七人か八人か子供がおりましょうが耕治さん程に日頃に一心の真を捧げて神様に又は親に尽くして行くのですから、それが邪気のない心で願うのですから、おかげ頂く筈です、この人がだから他の兄弟達にもです、そう言う生き方になってご覧、有難い神様を頂いているのと同時にそう言う有難い、親の御霊様を頂いておるのだから、おかげ頂くよと言うて話した事でした。
椛目の大体私が椛目の出身ですから昔お世話になった方ばかり、そのご兄弟がその奥さん達が皆見えとりました、それで御直会の席で申した事でした、本当に現在こうやっておかげいただいてますけど、あなた方御承知の様に椛目のあの修行時代には、それこそもうなんと言いますか妹の婿が亡くなる時なんかは、お棺を造るのに釘がなかった、あの時分は釘は配給でしたからね、なかなか売ってくれんのですよそれで、宮崎さんのお兄さんのとこへほんの一握りの釘を分けて貰って、お棺が出来た。
火葬場に運ばなければならんけれども、病気が病気でしたから誰も構い手がなかった、私が一人で車力を引っ張って火葬場にやらせて頂いたら、薪が悪いといってこげな薪でどうして、焼かれるかと言うのですよね、それから帰ってね、又薪の用意するけど無いとです、その時分は、それを内田さんの昨日お祭りを受けられた御霊が、内田建造さんがもうこんな大きな私の家に木の根っ子がありました、それをもう大変長い時間かかってから、割って少しばかりの割り木を造って貰った。
それでも足らないそれで割り木を持っておられるところの相談にゆきましたら、大変心良くしてもらった、本当に人間が一番苦しかったり悲しいかったりの時、助けて貰った事は忘れられんと昨日話した事でした。あの時分はあんた方が御承知の様に、さあ今日は食べたが明日はどうするじゃろうか、米びつ中は今晩でおしまい、と言う事が何回あったかわからなかった、けれどもね信心の有難さと言うものは、私はその時分に身に付いたと思うのですけれども。
さあ今日は今日でこうして頂いたのだから、今日の事をしっかりお礼申さして頂いて、明日のことは明日、さあ寝ませて頂こうで、それこそもう明日食べる事なんかはもう、考えもしないで忘れる程しのおかげを頂いておった、否そうだけではなかった、明日は神様がどの手で御飯を食べさせて下さるだろうかと、思っただけでも胸がうずく程しに感動しとったです私は、それがいつもの事ですから、それはもう本当に不思議な、不思議な働きの中にです、明くる日はちゃんと食べものを用意してくださったです。
そう言う事を知っておって下さった方達ですから、その話しを昨日私がしたのです、裏に篠原さんと言う所の御兄弟が居られました方が、学校の賄いのお世話をなさっている時に何か大変な大寄りの時に沢山のおにぎりが出来た、その頃おにぎりと言えば白い御飯で出来とるとじゃから、いわば銀めしと言う時代です、家内が前の晩にもう今日限り食べ物は食べてしまった、明日食べるものがありませんと言いよるとき、明くる朝早く、その方は矢作におられました川の上の方の村ですから。
早く下りて見えてからセリ箱一段そのおにぎりを持って来てやっとんなさるとです、お宅には鶏がおったから鶏なっとん食べさせて下さい、昨日学校で炊き過ぎてから余ってどんこん仕様のなかけん、そりゃ成程私どもが難儀をしとりますから、持って行けばたべなさると思うてから、わざわざ矢作から持って来て下さったでしょうけれども、それがお粥にして家族中のものが一日粥にして食べられる程しのおかげに、そう言うおかげを度々頂いておったです。
だから一日だって半日だって食べんで辛抱しとかんの、と言う事は決してなかったと言う程しにです、だから前の晩からね、例えば明日を楽しめとこう教祖様は仰るがね、明日を楽しむと言うことは明日は神様のどう言うお働きが頂けるじゃろうかと、明日は神様がどの手でおかげを下さるじゃろうかと、思うから心がはずんで来るのです、楽しくなって来るのです、それを頂きに頂き続けておるのですから神様のおかげを頂かなければ、食べる事だって寝る事だって、動く事だってこの神様のおかげを頂かなければ。
立ち行かんと言う事をもう芯から骨の髄まで分からせて頂いた、と言う事になる、だから神様を片ときだって離す事はできない。だから神様も離れる事が出来ないと言う神様と、離すことが出来ないと言う氏子の心と心がぴったり結び合うのです、そこに成程天地にはこの様に素晴らしいおかげの基があるんだと、人間の幸せになるためのすべてのものが、自由になられるところの神様を私どもが頂いておる、と言う事をおかげの上から実感させて頂く、そこでね私どもがそう言う体験を積んで行く事に依って。
ああこの神様のおかげを頂かなければとそれを愈々思い込ませて頂くために、こう言う心の状態になったら良いです、「悪いものでも悪く思わぬ心で祈れ」と、悪いもの例えば根性の悪い人がありますよ、冷たい人がありますよね、こすいずるい人がありますよ、あん奴は悪い奴じゃと、あの人は悪い奴じゃと、悪い奴じゃと思うそう言う心で神様に祈ったっていかんと、それは成程世間では悪人と言うかも知れないけれどもね、けれどもそれを悪く思わないと言う事、言わば罪はにくんでも人は憎まない。
と言った様なことわざがありましょう、そう言う心で祈ると言う事なんです、あん奴は好かん奴じゃと言う心で祈ったって、神様には通用しない、それを神心と言うのです、だから私どもいつも思います、あの人はずるい人だ、あの人は悪い人だと思いますけど、御神前に向かったらその思うとる心、いやそげな事じゃないそげな事じゃない、あの人も矢張り神様の氏子だ、そしてああ言う素晴らしいところもあるのだと言う風にね、思いを変えて行かないといけません。
腹が立ったりいらいらしたり、あれは悪い奴じゃと人を悪い奴だと思う心で祈っても神様には通じない、本当の意味においては、そう言う心の状態で祈らせて頂く稽古をするなら、なる程この神様のおかげを頂かなければ、立ち行く事ではないと言う事実を、私どもが体験の上で頂く事ができる、体験を持つ所謂表して行く事が出来る、神様とは不思議なおかた、こう言うおかげを下さる事の出来る神様だと言う事になる訳です、神は天地の守りじゃから離れる事は出来んと言う事は
神は氏子の守りじゃから離れる事は出来んと言う事にもなるのです、ですから神様が私どもから離れる事はできない、けれどもこちらが、さっきの御霊様と同じ事、そう言う力を持ってござる御霊様でも、こちらが願う気になり一心の真を捧げて日頃、御霊に奉仕しておらねば、おかげにならんです、この神様でも同じ事、天地の親神様は尚更そうなのです、如何に神様が離れる事が出来んと仰っても、私どもその天地に向かって、純真な真を捧げてその神様に接して行く。
いわゆる真心一つでおかげを頂くと言うのはそう言う事なんです。しかもその神様を離れては、私どもの幸せはもうこれは絶対なれないです、天地の親神様の御恩恵に浴しなければ、絶対に人間は幸せになれんです、金があるけん、健康だけでは幸せじゃないです、その天地の親神様に許されなければ幸せではないです、ですからその天地の親神様から守り通しに守られておる、と言う実感、離れる事は出来んと仰るからこちらも離す事が出来んと言う思い、この神様を離れては立ち行かん私である。
私一家であると分らせて頂くときに、ひとしほの神様への情感と言うものが強くなってくる、そこから成程神様が人間の幸せの鍵をにぎって御座る、神様だなあ、こう言うおかげが受けられると言う、おかげを頂く事が出来るのです、今日は離れる事は出来んぞとおうせられる神様、それは天地から離れる事は出来んと、それは天地の守りじゃからと仰る事、今日は神は氏子の守りじゃから、氏子から離れる事は出来んぞと言う意味の事をもって聞いて頂いたですね。
神は氏子の守りじゃから離れる事が出来ん、なら離れる事ができなさらんば、もちっとましなおかげをくださればよかりそうなものと、言う様な横着な考え方をしてはできんとそう言う神様でも私どもが一心の真を捧げて、そして祈らせて貰う願わせて貰う事にならなければ、その神様の働きを表すことは不可能であると言うこと、その祈る内容がです浅ましいことを思うて願うのじゃない、あの人は悪い人だと普通では言う、自分でも思うけれどもその悪い人でも。
悪いと思う様な心ではないその心をうち振りながら、ああそうじゃない自分の心はあの人が悪いと言いよるばってん、自分の心の中にはもっと悪い心があるだろう、と言う事に気が付きます、そしてあの人にはああ言う素晴らしいとこもあると言う事になって来る時、もう悪いとは思はなくなってくる、あの人は根性が悪いとか意地が悪いとか思わなくなって来る、そう言う心が神心です、人は悪人と言うのにはああ言う良い人がと言うのが神心なのです。そう言う心で祈れ。
そこから本当の意味に於いての、神様の成程離れなさる事が出来ない神様だなあと、思うただけでも神様が聞いて下さる、昨日の御理解の中にありましたね、御神飯をお供えさして貰うのに、出来上ったその釜の中をまぜながら、神様神様と言うて御飯を頂けば、神様神様と言うた時にもう御神飯をお供えしたのも同じだと、と言う御理解を頂いたでしょう、そう言う神様なのです、私共でもそうです、神様に通う心、神様に喜んで下さる心、あの人は本当に良い人だけれども人から好かれんと言う人かありますね。
あの人は本当にきりょうが良かばってん好きどころがないと言う人がありますね、同じ事です、器量はそうでもないけれども何とはなしにチャーミング、何とはなしに魅力がある、と言う人がありましょうが、誰にでも愛されると言う人、私どもはね神様に愛されると同時に人に愛されると言う事を、いつも心がけておくと言う心は、そう言う心で神様へ向かえば、おかげを頂きます、私なんかが神様から例えば愛されてもね、人から愛されないものを持っているのですね。
私は自分で気がつきます、人に好かれんです、今ここで皆さんおかげを受けておられるから、親先生親先生と言うて下さるけど、他所の者は好かんです私を、何かそう言うものをチョッピリある事を私は気が付きます。今日は私神様からその事を頂いて改めてそれを思うたですね、例えば私が儲けだすと致しましょうか、あああれどんが十年前、二十年前はあげんじゃった、じゃないかと言われる人が私の周囲にあると言う事。
あの人が儲け出しなされにゃ、誰が儲け出しなさろうかい、あの人が儲けなさるのは当たり前と、皆が見てくれるならば皆に愛されとる訳です、けど私がどんなに儲け出してもです、ああ、あれが元は酒ども売って、さるきよったっちゃからと言われる人が周囲にあるとするならばです、好かれてないのです、それをね今日は、私の紋は天満宮さんの紋ですよね、梅鉢の紋ですよ。
菅原道真の事を頂くのですよ、あの人もなる程神様にまつられる程の素晴らしい人であったけれどもですね。その人を良く言わない人のために、讒言されて二日市へ太宰府へ流されて来たのですよ、だからこの人も素晴らしい人じゃったろうばってん、人からにくまれる、讒言される様な内容を持ってあったと言う事でです天満宮さんは。これは私大坪総一郎も同じ事です。
ですから厳密に自分を見極めようとするなら。もう限りがないです。私はそれを改めて気を付かせて貰った、ほんなごと合楽がゴヒレイが立ちおかげを頂くとです、あれはふの良かったいと言う様な、見方をする様な人がある間は、私の内容にまだ人から好かれんものが有るのだと思うたら、どこが好かれんかと思うたら、もう本気で改まる気にならして貰う、そう言う改まると言う心の状態、本当に改まらして下さいと言う心、そう言う心で神様に祈るならば、神様と交流する事が出来る。
どうぞ。